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  • 2011.12.11 Sunday
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【文語短歌】自由自在・その3【古典和歌】

どうもこんにちは、さねともです。

連載第三回目、の前にごあいさつ。

おかげさまで『歌クテルwebマガジン』に思った以上のアクセスを頂いておりまして、毎日アクセスログを見るのが楽しみになっております(笑)。それで、このwebマガジンはjugemさんのシステムを使わせて頂いておりますが、jugemさんのアクセスログに「検索ワード」という機能がついていましてね。読者の皆様がgoogleやYahoo!などの検索サイトで、どんな言葉を検索してwebマガジンを見にきてくれたかが分かるようになっています。

そしてその検索ワードのログに、こちらが登場しました。

「和歌 短歌 違い」

これは嬉しかった!
少なくとも「和歌と短歌の違い」という素朴な疑問について興味をお持ちの方が前回の私の記事にたどり着いてくださったわけでして、お役に立てたかどうかは分かりませんけれども私にとっては「書いた甲斐があった!」と充実感にひたるだけの感慨がありました。

というわけで…

今回も和歌と文語短歌の違いについて、書かせていただきます。


前回、和歌が「やまとうた」を意味し、それが漢詩(からうた)へのカウンターパートとしての呼び名であることを書きました。さらに、和歌の勘どころが恋歌にあることも書きました。

どうして恋歌が和歌における最重要な分野になったかというと、それは漢詩との対立関係を書かないわけにはいきません。

いつからか我が国では「漢詩は男のもの」みたいな風潮が生まれまして、この風潮は平安の昔から現在までそんなに変わらないんじゃないかと思います。たとえば漢詩が好きという女性、読者の皆様の周りにいますでしょうか? 私は何人かお会いしたことがありますが…それでも「珍しい」と言えるくらいです。

それは高校時代の、漢文の授業を思い出していただければ何となく分かってもらえるんじゃないかと思いますが、教科書に載るような漢文には恋愛を題材にした作品がほとんどありません。それから漢詩の作者ひとつとってもことごとく男性で、内容といえば辛い人生や大志を述懐するものばかり。女子高校なんかだと漢文の授業はさぞ退屈だったんじゃないかと想像いたします(苦笑)。

つまり恋歌(相聞)という漢詩にない分野を和歌がすでに持っていたこと、さらに女性作者が存在したことが重要だったのであり、恋歌は遣唐使廃止以後の国風文化を盛り立てる重責を担っていたのです。

この当時のことを想像するに、その推進力はとてつもないものだったと思うのですね。一方には漢詩至上主義みたいな人たちがいて、その一方で日本固有の和歌こそ重要だと謳う人々がいた。やがて菅原道真による遣唐使廃止とともに後者がその勢力を決定的にする…、その時に漢詩にはなかった恋歌の存在がどれほどの説得力を持ったか、その様子に私はしびれます。

夕暮は雲のはたてにものぞ思ふあまつ空なる人を恋ふとて
(『古今和歌集』恋歌一・詠み人知らず)

…夕暮れになると雲のずっと向こうに向かってものを思う。遠い空のような(身分違いな私の運命の)人を恋うように…


こういう歌が生まれたのは、漢詩の呪縛から逃れた自由な発想がそうさせたのであって、この歌の背後にどれだけのエネルギーがあったかが重要だと思います。

そしてこれと同じような推進力が、明治以後の文語短歌隆盛にも働いたと思うのですね。

前回書いた通り和歌は「やまとことば」のみで出来ており、それを何百年も続けていれば当然その姿は伝統形式に堕してゆくことになります。歌にする題材を前提からして狭めている限りは、組み合わせの妙を競ってゆくしかない。その上に過去の蓄積が物を言うようになると誰もがおいそれと詠むことはできなくなってしまいます。

その前提をとっぱらったのが正岡子規でした。

子規は和歌に対してやまとことば以外の外来語をふんだんに盛り込み、その題材においても和歌での最重要事項であった恋歌をいったんオミットして「写生」という新たな分野を打ち立てます。そうすることで和歌の呪縛のようなものを無力化して、限られた人たちのものであった和歌を誰もが詠める「短歌」へと昇華させることに成功します。

くれなゐの二尺のびたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る
(『竹の里歌』・正岡子規)


この歌の「二尺」「薔薇」はかつての和歌には見られない言葉で、今でこそ何でもないものですが当時はこれらを用いるのには相当な反骨精神が必要だったと思われます。そのエネルギーが病弱な正岡子規のどこにあったのか、そこに注目しないとこの歌が名歌と言われる理由をうまく説明できません。この歌の何が素晴らしいかといえば、調べや言いがたい余韻などよりも先にとにかく「こんなのでいいのか!」と読む人に思わせる自信のようなものこそが大事だと私は思うのですね。「そう、こんなのでいいんだよ」という答えのようなものまでこの歌は持っていますから。

さて、駆け足で述べて参りましたが、この後に短歌がどうなったかは皆様にもある程度は分かるんじゃないでしょうか。

和歌が漢詩を打ち倒し、文語短歌が和歌を打ち倒した流れの延長線上に、今度は口語短歌というものが生まれてゆくわけですが…それは私のエッセイの範囲を超えてしまいますので今日はこのへんで。

いやー、短歌って、本当にいいものですねぇー(苦笑)



(このウェブサイトに掲載されている情報は、著作権法に基づき保護されています

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  • 2011.12.11 Sunday
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コメント
毎回、楽しい授業ありがとうございます(^_^)

昔、学校での古典の授業を寝て過ごしたのが悔やまれます(笑)

漢詩や和歌、文語短歌に口語短歌と移りゆく歌の形態と共に、その時々の時代に生きた歌人達だからこ歌えた歌が今へと、そしてこれからパソコンや携帯という新たな世界から次世代の短歌形態へと流れて行くのでしょうね(^^)

これこそまさに短歌の進化ならぬ「進歌(しんか)」ですね!!


ほんと、短歌って面白いですね〜(笑)


次回も楽しみにしてます。
  • 夜考宙ん
  • 2010/05/11 6:16 AM
> 夜考宙んさん

いつもありがとうございます!
コメント書いてくださると書き手さんのモチベーションが上がりますー。

授業だなんて、そんな…(恥)

「下手の横好き」を地でいってるようなものでして、私も国文学科に進んでいればなあと悔やむことしきりでありまする。

これからも宜しくお願いします。

  • さねとも
  • 2010/05/12 12:30 PM
今回の子規の歌についての言及、なるほどね〜、って感じで読みました。これまでは「二尺のびたる」の把握が素晴らしいのだ、と教えられて来て、そういうものかな、と思っていました。ズバリ、言葉そのものが新しいのだ!と言われると、非常に納得できます。
詠まれた時代の空気を実感するのは、なかなか難しいですね。
  • くしだ
  • 2010/05/12 5:05 PM
おお!
くしださん!
ありがとうございます!

私も子規の歌なにがいいんだかよく分からなかったクチなのですが(苦笑)、改めて考えてたらこれに行き着きました。

あー今回はいい仕事した気がするーっ!

めちゃめちゃ嬉しいです。

くしださんの連載も楽しみにしています。
  • さねとも
  • 2010/05/12 10:46 PM
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