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【文語短歌】自由自在・その5【古典和歌】

こんにちは、さねともです。

とうとう連載5回目です。いやー、ここまでこれて本当に良かった! もう肩の力抜いて、本気でざっくばらんにやらせていただきますよ。

さてさて、今回は『文語における若さとは何か』の続きでしたね。そんなの肩の力抜いて大丈夫なのか、というツッコミはさておき、今回は口語と文語の違いから。

我々が普段しゃべっている日本語を「口語」と言います。これに対して「文語」というのは本来の意味では文章語を意味します。今でこそ話し言葉も文章も全て口語を使って我々は過ごしていますが、かつての日本人は話し言葉と文章語を厳密に分けていました。

たとえば…いま大河ドラマで『龍馬伝』やってますでしょ?

あれの台詞はもちろんドラマ的に現代語みたいなものになっていますが、すでに幕末の頃の会話は現代日本人にも通じるような言葉で行われていただろうと言われてたりします。大体、龍馬が死んでから20年で二葉亭四迷の言文一致小説『浮雲』が書かれるのですから、もうその頃には文語と口語の差は相当な開きがあったのです。

試しに『浮雲』の台詞部分を。

「けれども山口を見たまえ、事務を取らせたらあの男ほど捗のいく者はあるまいけれども、やっぱり免を食ったじゃアないか。」
「あいつはいかん、あいつはばかだからいかん。」
「なぜ。」
「なぜと言って、あいつはばかだ、課長に向かってこないだのような事を言う所を見りゃア、いよいよばかだ。」

うん、これはそのまま読めますな。
さすがに20年間で口語ががらっと変わることもないでしょうから、幕末の頃にはほぼこれと変わらないような会話が為されていたであろうと。

ではほぼ同時期に書かれた森鴎外の文語小説『舞姫』より台詞部分を。

「我を救ひ玉へ、君。わが恥なき人とならんを。母はわが彼の言葉に従はねばとて、我を打ちき。父は死にたり。明日は葬らではかなはぬに、家に一銭の貯だになし。」
「君が家に送り行かんに、先づ心を鎮め玉へ。声をな人に聞かせ玉ひそ。ここは往来なるに。」

んー。
これいかがです?

文語として見たらとても美しいのですが、これは会話としてはあまりに無理がある(苦笑)。


藤原定家著『近代秀歌』という歌論に、こんなことが書かれています。

詞はふるきをしたひ、心は新しきをもとめ、をよばぬたかき姿をねがひて、寛平以往の哥にならはば、をのづからよろしき事も、などか侍ざらん。

(歌の)言葉は古い方がよく、心は新しい方がよい。理想は高く追い求めて、寛平時代より以前の歌を手本とすれば、自然と悪くはない歌が出来るに違いありません

定家が活躍していた西暦1200年前後というのは、『古今和歌集』がこの世に生まれてからすでに300年近く経っています。上記の文が何を意味するかというと、その頃ですら和歌に使われている言葉がすでに古臭くなってたってことです。

言葉というものは使われているうちに進化するもので、いわゆる「ら抜き言葉」と言われるものも最近では単純に誤用と断じる風潮が弱くなってきたような気がします。これと同じようなことが、定家の時代にはすでにあったのだろうと私は思っています。当時のひとびとには口語と文語の使い分けという意識はまだ無かったと思われますが、ひょっとしたら「詞はふるきをしたひ」というのは、口語と文語での表現の乖離が顕著になってきたことへの言及なのかもしれません。

考えてみると10世紀に生れた『古今和歌集』以来、現代の文語短歌に至るまで文語のスタイルみたいなものがずっと固定されているというのはすごいことです。たとえば。

入りかはり立ちかはりつつ諸人は誇大妄想をなぐさみにけり
(斎藤茂吉)

ゆく水にかずかくよりもはかなきは思はぬ人を思ふなりけり
(『古今和歌集』詠み人知らず)

その時間差、千年!
これが一体何を意味するのかといえば、日本人の伝統意識みたいなものもあるには違いないと思いますが…私が考えるのはもっと根本的に『文語が日本語における標準語』を担っているんじゃないかということです。

というのは、日本語の口語というのは実は世界的にも類を見ないほどの多様化を遂げた言語でして、そのすごい例を挙げますと…。

「あたし知らないよ」
「僕は知らないよ」
「俺は知らねーよ」
「わしは知らんよ」

↑この4つのセリフそれぞれが、老若男女いずれの区分による発声かがある程度は分かっちゃうんですよね。さらにこれに方言が加わるとなるとどうでしょうか。たった一つのセリフで性別や世代、地域まで読者が把握できてしまうのですから、その性能おそるべし、です(それを作品として使いこなすのは、よほどの言語感覚が必要だろうとも思います)。

対して文語はどうか。
上記の例で言うなら老若男女の区別なく

「われ知らず」

です。

私が考える『文語が日本語における標準語』であるというのは、そういうことです。つまり文語というのは発声した人がどういう人物なのかを特定するための特徴を持ってない。性別も世代の違いも、文語は必要としていないのですよ。

だからこそ和歌や短歌に用いられたのかとも思う反面、この日本語の骸骨みたいな「標準語」でいかに個性というものを表現するのか、ということになるとちょっと想像つかない苦労を思ってしまいます。

そんな文語で、いったいどうやって若さを表現すればいいのか?

だんだん面白くなってきたところで、今回はここまで。
それにしてもこれは難しいものに手を付けてしまったな…(苦笑)。



(このウェブサイトに掲載されている情報は、著作権法に基づき保護されています

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