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- 2011.12.11 Sunday
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まず書き始める前に、昨日報道された訃報から。
河野裕子さん死去。
河野裕子さんといえば…
逆立ちしておまへがおれを眺めてた たつた一度きりのあの夏のこと
たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか
ブラウスの中まで明るき初夏の陽にけぶれるごときわが乳房あり
(河野裕子『森のやうに獣のやうに』昭和47年)
この三首は外せますまい。
一首目の男女倒錯というか、これは文語ならではの特性を逆手に取った名歌です。逆立ちしたのは男なのか女なのか。また「おれ」は男なのか女なのか。そこは読者に委ねられていますよ。
二首目も歌人だったら誰もが知ってる名歌です。私の感触でしかありませんが、私が子供の頃に読んだ少女漫画の数々は、この歌を土台にしてるような気がしてます(というか読んでたのかよ。ちなみに私のお気に入りは、岡田あーみん『お父さんは心配症』)。
三首目。
これは古典和歌の「思ひ(火)」を取り込んでます。「けぶれるごときわが乳房」は「思ひ(火)」によって燃え、煙を出すのです。その内側に燃える思いと初夏の透き通るような明るさ!
本当に素晴らしい歌人だと思います。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
さて…
河野裕子さんを出しちゃうと次の歌がとても出しづらい(苦笑)。
匹敵するのは小野茂樹でしょうか。
あの夏の数限りなきそしてまたたつたひとつの表情をせよ
(小野茂樹『羊雲離散』 昭和43年)
これも有名すぎるくらいの名歌。
私の大事な仲間はこの歌を「実はエロい」と断じてました。
でも、そうなんですよね。この歌をプラトニックなままで終わらせると物足りないのです。
短歌というのは三十一音しかないわけですから、詠われている以外の言葉は読者が補完するしかない。その補完を自然に促すような歌がいわゆる秀歌となるわけで、それをいかにさりげなく歌に出来るかというのが問題なのです。適当に詠めば適当なままに、わざとらしさが出てしまいます。
茂樹の歌は、そういう工夫を感じさせないくらい簡単な言葉でそれを達成しているからすごいのです。
そういう歌、探すとなると…。
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
(寺山修司『空には本』昭和33年)
やっぱりテラヤマっすか。
この人は好き嫌いが分かれると言われていますが、何だかんだ言ってテラヤマは巧い。簡単に出来そうに見えますがこれを作るのにどれだけ言葉の取捨選択を行なっているか。この歌には不要な言葉が一切なく、曖昧な言葉もありません。それは、言葉を足していって三十一文字に収めるのではなく、言葉を削っていって三十一文字にするから出来ることです(その差は歴然だと思いますよ)。
あいや、時間切れ。
以上の歌から、三首並べてみます。
逆立ちしておまへがおれを眺めてた たつた一度きりのあの夏のこと
あの夏の数限りなきそしてまたたつたひとつの表情をせよ
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
こうして並べてみると、戦後の若き歌人たちの夏は、なんだかアツイですな。今はすでにこれらでさえ古臭くなっていますが、それでもこれらの歌が持ってる独特の緊張感は何とも言えずいいものだなぁ、と。
これも時代の空気かな…。
20世紀中葉の人たちは、とても集中して生きてたんだと思いますよ。
今ほどいろんな情報に興味が分散しない分、その集中力はすさまじかったんだろうな、とも。
今さらながらに、いろいろ考えさせられる今日この頃です。
(このウェブサイトに掲載されている情報は、著作権法に基づき保護されています)
長谷川櫂さんは「大いなる女性を感じさせる」と書いておられました。