こんにちは、さねともです。
いつもご覧になってくださる皆様には、心より感謝を申し上げます。
おかげさまでこの歌クテルwebマガジンも一周年を迎えることができました。最近はちと更新が遅延しておりますが…(ごめんなさい)この更新を終了する時は必ず宣言しますので、あ、いや、そうならないようにする方が先です。まだまだ更新いたしますので、どうぞこれからもよろしくお願い申し上げます。
もともと『歌クテル』というのは手に取って読める雑誌だったのですが、本誌『歌クテル』は現在5号で休刊となっています。しかし「休刊」ですから、いつかまた6号が皆さんのお手元に届く可能性がないわけではない。その日まで『歌クテル』を絶やさないように、このwebマガジンがあります。
私が管理人を引き受けたのはそのためです。初心に返って更新を続けてゆきたいと思っています。毎週日曜日のアクセス数の多いことが、とても励みになっていますよ。
さてさてそんなわけで、今回は一周年特別企画をお届けします。
何をするかといえば、笹井宏之さんの歌について書こうと思っています。
さきにこのwebマガジンでA.Iさんが触れてくれましたが、笹井さんの歌集がここ最近、三冊刊行されました。特にオンデマンド出版だった第一歌集『ひとさらい』が書店に平積みになっているのを見た時、感激してしまいましたよ。素晴らしい、光景でした。今日はそれらの中からいくつか歌を紹介したいと思います。
さてひとくちに笹井短歌について書くといっても、あの短歌史における突然変異のような作品は、どうにも書きづらいです。語れば語るほど、嘘くさくなるのが関の山。「説明は要らない! とにかく読んでください!」と言ってしまいたくなります。
たとえばこんな歌。
ひきがねをひけば小さな花束が飛びだすような明日をください
第二歌集『てんとろり』にも、作品集『えーえんとくちから』にも掲載されたこの歌。これはもう、短歌的にどうとか、そういうことではないような気がする。そのまんま読めばいい。短歌ってこういうのでいいんだ! とふだん短歌にあまり親しんでいない方がそう思ってくれたら、それでいいと思う。
笹井さんは、たとえば仲間の誕生日などにはおめでとうメールを送ってくれていたのですが、その中でよく「文字クラッカー」を鳴らしていました。
それは
ぱん!ってひらがなで書いてくれるだけのことなんですけどね。
「小さな花束」の歌がNHKのドキュメンタリーで紹介された時、私はこの文字クラッカーが思い出されて仕方がなかったです。それが鳴らされたメールを読んだときの、くすっという微笑を伴って。
笹井さんが亡くなってしまったことを知っている我々はややもすると悲しみをおぼえがちですが、今はそれを排除して味わってほしいと思います。これはかなしい歌ではない気がする。
私はこの歌を見ると、どうしても思い出す歌があります。唐突ですがそれは源実朝の歌。
はかなくてこよひあけなば行く年の思ひ出もなき春にやあはなむ
はかない気分のまま思う、今日のこの大晦日が明けたら、今年のいやな思い出もないような新春になってほしいものだ。
大みそかから元旦に変わる一瞬の、わくわくするカウントダウン。実朝の時代には夜明けが一日の始まりですから、笹井さんの小さな花束は実朝の初日の出かもしれないです。それはもう、初日の出が見えた瞬間に
ぱん!だったと思いたい。
そういえば暗殺されてしまった実朝の歌も、悲劇というフィルタを外すと意外なくらいにあっけらかんとしているものが多かったりしますよ。
では次はこの歌。
もうそろそろ私が屋根であることに気づいて傘をたたんでほしい
『えーえんとくちから』より。私はこの歌に強い思い入れがあります。
雨の降る日の屋根、その下に傘をさしたままの人がいる。その人に向かって呼びかけているような、優しい言葉。責めるでもなく、でもほんのすこしの寂しさを匂わすような、優しい言葉。
屋根の届く範囲には限りがあるので、その人が屋根の下から立ち去るなら当然傘をささないといけない。そうなるとこの屋根はどんな屋根? 家の屋根? お城の屋根? 商店街のアーケードのような、屋根?
私はこの屋根、笹井さんの屋根は、ひょっとしたら全世界を覆う屋根なんじゃないかと思う。
根拠はないです。ただそう思うだけ。
たださっきの実朝と同じように、そんな屋根を思い浮かべた詩人がいます。
茅屋為秋風所破嘆(茅屋の秋風の破る所と為るの嘆き)
八月秋高風怒号:台風のせいで
巻我屋上三重茅:うちの屋根が飛ばされてしまった
…中略…
床床屋漏無乾処:雨漏りで床は濡れっぱなし
雨脚如麻未断絶:それでも雨は止みそうにない
…中略…
安得広廈千万間:何とかしてでっかい家が欲しい
大庇天下寒士倶歓顔:家に世界中の人を呼んでともに笑っていたい
風雨不動安如山:風にも雨にも倒れない、そんなでっかい家
嗚呼何時眼前突兀見此屋:いつの日か、そんな家が目の前に現れないだろうか
吾廬独破受凍死亦足:そうしたら俺一人凍え死んでもかまわないのに
これは詩聖、杜甫の詩。
何なんでしょう、この「不条理」感。
雨漏りで寒い思いをしている自分の様子から、世界中の人々を心配するまでに飛躍してしまう、優しさともつかない得体のしれない大きさ。杜甫のすごいところは、これをポーズやら口先じゃなく本気でそう思っていることです。杜甫にはこんな感じの詩が多くあります。また杜甫には手紙らしい手紙がほとんどなく、人に送ったと思われる文章が実は全部詩だったんじゃないかとも言われています。
そして私は、笹井さんも本気でそう思うことのできた人なんじゃないかと思っています。それに送られてくるメールそれじたいの文面が、全部詩のような人でしたしね。
ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす(『ひとさらい』)
風。そしてあなたがねむる数万の夜へわたしはシーツをかける(『てんとろり』)
それぞれの歌集を代表するような、二首。これらも、本気でそう思ってるんだと思います。ただの優しさなら誰にでもある。でもこれらは、ただの優しさではない。
「優しさの厳密性」とは、穂村弘さんが2009年3月に行われた「笹井宏之さんを偲ぶ会」で発言された言葉だったと思いますが、とにかくそういう極限までつきつめられた優しさ。
それを持ち合わせた、なんとも不思議な詩人たち。その一人が、かつて『歌クテル』に関わっていたということを、私は忘れないでおこうと思います。
…
急いで、書きました。
でも、気合入れて書きました。
今後も折に触れて、笹井さんの歌を紹介できたらと思います。
いまはこの歌クテルwebマガジンが一周年を迎えられたことを皆様に感謝しつつ。
どうぞこれからもよろしくお願いいたします。
ぱんっ!ぱぱん!!(マネしちゃいましたm(_ _)m)
そして執筆歌人の皆様毎回愉しい話題をありがとうございます(^O^)
僕はほんの一読者ですが、Webマガジンを拝聴拝読していると自分もまだ歌クテルと繋がっている気がします(勝手にスミマセン)
これからも皆さんの執筆を楽しみに、そして静かに(笑)応援しています(^_^)v