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連載小説 『部屋』 【前編】

  音速は大変でしょう。百合若は頭上の耳の片方だけをまずは声のするほうへ向けた。魔王は再び同じ言葉を放した。音速は大変でしょう。犬の姿をしたなにかの精霊は、つぎに鼻を天井へ向けた。犬の鼻は、一九世紀初頭のプロセインで造られたシャンデリアの光をまともに受けて美しく濡れていた。音速は大変だろうか。その呟きの方へ、今度こそ犬は顔を向け主人を見た。魔王は犬に、音速はほんとうに大変だろうか、と尋ねた。


「一八九六年の夏、ドイツ人オットー・リリエンタールは彼のハングライダーの最後の飛行試験に失敗した。彼は翌日、死んだ。一九四七年十月、アメリカ人チャック・イェーガーはベル社XS―1を操縦して、マッハ1,06の速度記録を樹立した。リリエンタールの死から人類が音速を超える迄に約五○年を要した。かるく五○年か、たった五○年か、ざっと五○年か。感慨はひとによって違うものだ」と犬の姿をした精霊は応えた。なるほど、大変だなと魔王は息を吐いた。馬鹿な犬だと思った。



 ありがとう、百虎丸。青年は猫にひと言礼をいってから、くわえた本を口から抜いてやった。本は意外に重く、表紙には四ヶ所の噛みあとが残った。青年は本を裏返した。ちょうど同じ辺りに噛みあとは三つ。青年は少し間をおいてから、クスッと笑った。ありがとう、ともう一度いって猫のあごを撫でてやった。猫は瞼をとじており、鼻が少し膨らんだ。喉も鳴らした。眼をとじた猫の膨らんだ鼻に青年が指で触れると、猫の左耳がピクピクッと二回震えた。

 「本は窓であり、出口であり入口でもある。本を読むことはよいことだ。そこに書かれていることは、あまり重要ではない。重要なことは、ひとが本を作り、本にひとが触れることだ。そのインターフェースこそが知性なのだ」猫の姿をした自称精霊がひと通りしゃべり終えると、そうかい、といって青年は目次を開いた。闇櫻、別れ霜、たま襷、五月雨、經つくえ、うもれ木、曉月夜、雪の日、琴の音、花ごもり、やみ夜…。猫は青年の腕に黒い靴下履きの前脚を乗せ、その手元を覗き込んだ。なあこれは小説の本だろそうだろなあ、と青年に問うた。



 魔王は音速について考えていた。緋色の革の光沢の鈍い大きなソファーに軆は深く埋り、または目を閉じて。魔王は音速について考えた。雲の中を濡れながら果てしなく進み、やがては雲をぬけると眩しい青空に出た。魔王は空を見上げた。空もまた果てしなかった。だが、魔王は進まなければならなかった。魔王は空の頂上を目指した。始まり、空は光に充ちた青だった。柔らかな、生命を包み込むような青だった。それは、多少の油断でさえも祝福されることの予感にすりかわる、そのような青だった。いつしか空の青が蒼に変り、蒼は急速に闇へと近づいていった。それでも魔王は進んだ、上へ進すまねばならいと思った。いつからか、少しづつ魔王の上を目指す感覚が鈍った。ただ真っ直ぐに上を目指していた魔王は戸惑いを覚えた。感覚の鈍りが頂点を迎え、そして頂点を超えようとしたとき、空は終わった。魔王は戸惑いであった、不安そのものであった。


 青年はページを捲る手をとめると本を床に伏せた。それから両腕を突き上げて大きく伸びをした。猫も青年につられて四脚を床にふんばり背骨を反らす姿勢をとった。猫は背骨をもとに戻すと、前脚の甲を使って眼のふちを上手に三回撫であげてから丁寧にその甲を舐めた。なあ、と。なあ、と猫が青年に言った。なあ小説とは嘘が書いてある本だろう嘘はいけないことだろう、と青年に言った。キミは小説を読まないのかい、と青年が猫に尋ねた。猫は小説を読まない、と猫が答えた。それじゃあ、猫はいったいどんな本を読むんだい。そうだなあ、去年いちばん流行った本は、確かプリニウスの「博物誌」だ。およそ四万匹の猫が読んだ。へぇ。これは、一五世紀ルネッサンス時代の知識人必読の書で、まあ、なかには眉唾物の事象もいくつかあるのだが、その辺りが猫の知的好奇心を微妙にくすぐるんだなあ。ふーん、他には。そうだなあ、オレがよく読むのは平凡社「世界大百科事典」とか「ブロックハウス百科事典」とかかなあ。あと「知恵蔵」とか。スノッブな連中には「和漢三才図絵」なんかも人気かなあ。そこまで聞いて、青年はに猫とスノッブを結びつけることは比較的簡単なように思えたが、スノッブと「和漢三才図絵」を結びつけるのは容易ならざることのように思えた。したがって、スノッブはナカムラさんのうちの洗濯籠のなかに、「和漢三才図絵」はヨシダさんのうちの冷蔵庫の裏に、それぞれがひっそりと平和に存在するのみであった。ちなみに、ヨシダさんの冷蔵庫の裏には二○○四年七月に賞味期限の切れたボンカレー・ゴールド辛口もあるのだが、ヨシダさん本人はそのことを知らなかった。


(次号に続く)

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